岐阜を誇らしく語ってほしい。その思いを貫いて、寺町正美さんはカナダへ渡る

その地域に住むことだけが、住み続けることだけが、地域に貢献する道なのだろうか。
人生には、住む場所を第一にして選択することができないときもある。もっとその地域の力になりたいから、あえて違う場所へ旅立つ人もいる。そんなときに周りの人が勝手に、その人の地域への思いは薄いとか、役に立たないとか考えるのはやっぱりおかしい気がする「関係人口」の重要性が叫ばれる現代において、多様な関係人口を確保することは、きっと地域の未来にプラスのことをもたらすのではないかと思う。

寺町正美さんNPO法人ORGANで3年間、さまざまな体験プログラムを行う「長良川おんぱく」の事務局や、インバウンド事業などを担当してきたが、今年7月末で退職し、カナダ・ビクトリアの大学に留学する。「岐阜のために働きたい、その拠点がどこになるかはわからないけれど」と寺町さん。岐阜の人に岐阜を誇らしく語ってほしい、その思いを強く持ちながら、寺町さんはカナダへ向かう。


寺町正美さん

つまんないのは私だった

寺町さんは岐阜県岐阜市出身。高校卒業後は市内の岐阜大学地域科学部に進学した。1年生の時、市教育委員会が主催、NPO法人ORGANが運営する「古今金華町人ゼミ」に参加。若者が岐阜の魅力を再発見し、まちづくりのプレーヤーとなることを目指した講座だ。

寺町:
それまで、岐阜なんて何もないと思っていました。柳ケ瀬は怖いところだと思っていたし。ちょっと車道から見るだけでも暗いし、シャッターが下りているし、廃れた危険なところだと思っていました。

それが、ある日のゼミで同じテーブルにいた人に「この後柳ケ瀬行く?」と言われたのです。ORGANの理事や大学の先輩など、尊敬している人たちが「オルガン洋品店で服買いたいんだよね」「私A.L.C.cafeでクッキー買おうかな」と、私の知らないことをしゃべっていて。「そんなに店ってあるんですね」と言ったら「案内するよ」と言われて、「あの柳ケ瀬に!?」と思いながらついていきました。

そうしたらいっぱい面白い店があって。衝撃でした。「こんなに店があるなんて。私が知らないだけだったんだ」と。

そのゼミで体験プログラムを企画したときも、「これをやりたい」と言ったら周りの大人たちから「じゃあ◯◯さんにお願いしたら」とか「あのおむすびを使おう」とか、どんどんネタが出てきて「えー」って驚いて。「岐阜つまんないと思っていたのは私だけだった、まちがつまんないと思っていたけれど、つまんないのは私だった」と思いました。

柳ケ瀬というエリアを、少し前の自分と同じように思っている人に「違うんだよ、今はこんなに動いているんだよ」と伝えたくて、ゼミでは「柳ケ瀬ミステリーツアー」というプログラムを企画しました。そのアポ取りや準備などで柳ケ瀬に何度も行くようになって、道がわかるようになって、店主さんとも顔見知りになって、休みの日に一人で歩き回れるようになって、大学の友達を案内するようになりました。


A.L.C.caféやオルガン洋品店の入っていたやながせ倉庫(写真は2016年)

知らないことを知っていく感覚がめちゃくちゃ面白くて。まちをゼロから自分のものにしていく感じがたまらなく気持ちよくて。それを伝えたくて、「知らなかった」というような反応があるとすごく嬉しくて。まちづくりの活動にはまっていきました。
これは柳ケ瀬だけでなく、岐阜市なら岐阜市のどこでも起こり得ることなのではないかと考えるようになり、そんなころに郡上市でもまちの人との出会いがあって、通うようになりました。こういうの超楽しい、これがそのまま仕事だったらいいのにと、ずっと思っていました。

岐阜でフリーペーパーの制作などの活動をする学生団体「岐阜人」に参加し、後に代表も務めた。翌年にはNPO法人ORGAN代表の蒲勇介さんに「古今金華町人ゼミ」の講師をやってみたいと相談し、「長良川みちくさゼミ」と名前を変えて学生たちで運営した。大学でもまちづくりに造詣の深い富樫幸一教授のゼミに所属し、卒業論文は「私のまちを好きになる ~自分の地域を語れる若者を生むには~」というタイトルで、全国の地域で活躍する人へのインタビューをしながら書き上げた。


「長良川みちくさゼミ」まちあるきの様子(2013年)

バンクーバーにちゃんと住みたい

一方で大学1年生のとき、その後の寺町さんの進路に大きく影響を与えるできごとがあった。

  「岐阜人」の営業で寺町さんは、先輩と留学関係の会社に赴く。そこで先方の話を聞いているうちに、「私、行くべき、という気がしてきて」。個人的に連絡を取り、カナダ・バンクーバーへの短期留学が決まった。しかも「岐阜人」とのタイアップの企画広告という形になった。

寺町:
出発前、英語をしゃべれるようになるには最低1年は行かないと、1か月なんて中途半端だとよく言われて、悔しかったです。

他の人には経験できない1か月にしてやると思って、1か月でできうる以上のことをしたという自負があります。日本人とはあまり話さずに、ボランティアをたくさんやり、英語も短期間で結構上達しました。

最初のころはホームシックで、家で泣いていたし、朝バスに乗って学校に行くときも、今この国に私を助けてくれる人は一人もいないと思ったら怖くてどきどきしていました。でも、1か月経ったら無の状態でバスに乗っていた。このまちに入ったやん、暮らすってそういうことか、と思いました。知らなかったものが自分のものになった感覚は、柳ケ瀬を知ったときと似ていました。

ただ、ずっと暇だったんです。岐阜では学校も「岐阜人」の活動もあるし、サークルも三つくらいやっていたし、「長良川おんぱく」関係のこともやっていて、あまりにも忙しい学生生活を送っていました。カナダにもう少し長くいられるなら、カフェめぐりもやってみたいし、まちあるきツアーに参加するのも面白いし、クラブ活動もやってみたい、とやりたいことがどんどん出てきました。自分の中で未消化のまま帰るような気分でした。

 このまちにちゃんと住みたい、ちゃんと住んだ上で悩んだり困ったりしてみたい。もう一度来て、一年以上の滞在をしようと決めました。

 最初は学生のうちにもう一度来るつもりだったが、夢中でまちづくり活動をしているうちに時は流れ、寺町さんは就職活動を始めていた。

寺町:
「岐阜の若い人が岐阜を語れるようにする仕事がしたい」と言って就活をしていました。岐阜の会社の中で、会社の理念や業務内容を見ながら、ときめくかどうか、社長の熱意に共感するかどうかという視点で探していました。だから業種はメーカーや印刷業などばらばらでした。

学生の間ずっと岐阜で活動し、卒業後も岐阜で動き続けることを考えていた寺町さん。しかし迷いながらも、バンクーバーに再び渡ることを決める。なぜ、進路を変更したのだろうか。

寺町:
個人の衝動として、バンクーバーに行きたいという気持ちがずっと変わらなかったというのが一つ。1か月だけ滞在したあのまちで「暮らせる」と思ったあの感覚、ここでもっとやりたいという気持ちがずっとありました。

もう一つは、私は岐阜市出身で岐阜を出たことがない。でも、まちづくりの核を担っている人は、東京から来た人やUターンした人が多い。あの人たちが見えている景色は一生手に入れられないと思うと悔しくて。私だって外の目線がほしい。ずっと岐阜で頑張りたいと思うがゆえに、岐阜を一度出るべきではないかと思いました。
いろいろな気持ちが全部合わさって、行く以外ないという思いになったのです。

まちを自分のものにしたい

寺町さんはワーキングホリデーの制度を使ってバンクーバーに滞在することにし、卒業前の半年でバイトをして貯金した。卒業するとすぐ渡航し、観光ビザも併せて1年4か月間滞在した。

寺町:
「住む」という感覚を達成しました。現地のオーケストラに入って、日本人がいない中で、カナダ人と楽しい時間を過ごしたり。編み物クラブや青年コーラスに入ったり、ローカルのカフェで働いたり、トランペットのレッスンをしたり。ロサンゼルスで1か月間、ラジオ局のインターンもしました。引っ越しも8回くらい。観光はまったくしなくて、オーロラもナイアガラの滝も見ませんでした。

  「ワーホリって自分探しでしょ」というような声もよく聞きました。また、ワーホリの日本人って大して英語が喋れない、日本人の女の子は弱くてNoと言えない、というような人種差別が現地ではあり、そう思われても仕方ないようなふるまいも目にしました。「いわゆるワーホリ」の枠を壊したいと思ったのです。学生時代、岐阜でいろいろなチャレンジをした延長で、カナダでもチャレンジしました。

「自分探し」ではないとすれば、寺町さんにとってワーキングホリデーはどのようなものだと考えていたのだろうか。

寺町:
あのまちにただ入り込みたい、あのまちを自分のものにしたいという感覚でした。

私が岐阜を好きになったのは、柳ケ瀬に一歩踏み込んだから。岐阜を語れるようになったのは、岐阜という地域に自分で入っていって、そこにいる人と出会ってつながっていたから。同じことがカナダでもできるのか試したい、4年間の経験を実証したいという気持ちがありました。

でもそこに英語力は絶対必要なので、こだわりを持って勉強しました。例えば、音楽には国境がないと思っていたけれど、オーケストラに入って国境はあるとわかりました。指揮者の言っていることがわからないと、バンドとして正しい音楽に参加できないのです。パート練習でジョークを言い合って笑いあっているときも、最初は私だけ入れないのがつらかった。

ただ英語がしゃべれるようになりたいというのではなく、英語で哲学や思想の話をしたい、カナダの人と語り合いたいというのがモチベーションでした。帰る前には、オーケストラでも本当に一員として参加している状態になって、歓喜しちゃいました。

バンクーバーで「暮らす」「まちを自分のものにする」という感覚をつかんだ寺町さん。岐阜に帰ることに抵抗はなかったのだろうか。

寺町:
寂しかったです。ずっといたかったけれど、私は日本に帰ってからが勝負だと最初から思っていました。カナダに行くのは就活の延長で、岐阜に戻ってやっとスタート地点に立てるという感覚です。岐阜に帰ってどうしようかというのは、いつも頭に置いていました。決まらなかったですけど。

カナダからの帰国直前、学生時代にお世話になったNPO法人ORGAN代表の蒲勇介さんから連絡があった。ORGANではそのころ、長良川流域の産品をそろえた「長良川デパート」を、ぎふ長良川鵜飼観覧船のりばの近くの、古いまちなみが残る川原町にオープンさせていた。

寺町:
「外国人の観光客も結構来る。長良川の文脈をわかっていて英語が話せる人がほしいから、帰ってきて暇だったらしばらくバイトしないか」と声をかけられました。「鵜飼のシーズンが終わるころまで」ということだったので、その後仕事を探せばいいかと思い「ぜひ」とお返事をして、帰国して2日後から働き始めました。

「本物」をつないでいくために

長良川デパートでアルバイトを始めた寺町さん。商品には、和傘和紙など高価な商品も多い。


長良川デパート

寺町:
最初は「高い」と思っていたけれど、納品に来る職人さんと直接話したり、工房に見学に行かせてもらったりすると「すごく手間がかかっていますね」「後継者がいないなんて」などと、湧き上がる感情がありました。「これ、人件費を考えたらこの値段では無理ですよね」と職人さんに話すと「これ以上高かったら売れないでしょ」と言われたりして。

お客さんの中には、和傘の値段を見て「高っ」という人もいるけれど、「どこでつくっているの、雨でも使えるの」などと聞いてくれて、ストーリーに感動してくれる人もいます。

岐阜はすごくたくさんの観光客が来る場所ではないのだから、たくさんつくって安く売るということができない。わかる人に本物を渡していくほうが、岐阜で守るべきものを守っていけると思います。そのためには、いいものはしっかりいい値段で売らないと、いい人に買ってもらえないのです。

そのうち、寺町さんは自分でも商品を買って使うようになった。

寺町:
接客にも力が入るようになりました。「これ長くもちますか」と聞かれると、「もちますよ、私ずっと使っているんですよ」と話して、「お姉さんが言うんなら買っていきますよ」と言ってくれたときのあの喜び。自分がいいと思ったものを感動のままに伝えたら伝わって買ってくれた。「接客ってこういうことか」と思いました。価値があると思ったら無理してでも買って、長く使ったらいいことがあるんだなとも思いました。

鵜飼シーズンが終わるころ、人員の移動があり、寺町さんに「このまま正規スタッフとして残らないか」と声がかかった。

寺町:
不安だったけどうれしかったです。ORGANは前職でのスキルのある人が集まってクリエイティブなことをやっているというイメージがあったので、大学を出て海外に行って帰ってきただけの、英語をちょっとしゃべれるだけの23歳にできることがあるのかと怖かった。
一方で、長良川デパートの仕事をする中で、このままこういう仕事をしていきたい、私のやりたいことはこれだなと思っていました。だから就活にも身が入らなくて、企業展に行っても全然ときめかなかった。

今のバイトは楽しい、でもバイト。もうすぐ鵜飼のシーズンが終わるしどうしよう、カナダに帰りたい、と思っているときにその話が出て、「縁とタイミングが合っているのだから、やるか」と思いました。カナダに帰りたい気持ちもあったけれど、次のステップに進む方法が出てきたから、これをつかまえないとだめでしょ、と。

まちの人の自己肯定感を上げる

 ORGANに入職した寺町さんを待っていたのは、大量の仕事だった。「長良川おんぱく」では毎年160ほどの体験プログラムが開かれる。その一つ一つについて、運営者とやりとりをしてプログラムを練り上げ、プログラム冊子に載せる原稿や写真を集め、サポートをする。また、講演や新規事業などの資料についても、代表の蒲さんのイメージを具現化することが求められた。

寺町:
まちへ入っていくとか、クリエイティブなことがしたいのかどうかがわからなくなってしまって。ワードとエクセルとパワーポイントの操作が早くなって、書類準備の専門みたいになっていました。

そういう人が会社には必要だから、その道でプロになればいいと思っていたけれど、同時に「いいのかな」とも思っていました。言われたことを、言われたところまでできる人でしかないのが嫌でした。もっと私はいきいきやるはずなのに、もっとできることがあるはずなのに、チャレンジしていないだけなんじゃないか。でも、物理的に追いつかなくて。もやもやしていました。

でも途中で、それは甘えだったとわかりました。あれもこれも聞くだけではなく、自分でどうしたらいいか考えるようになりました。言われる前にやってみたり、言われる前に聞いてみたりするようになって、だんだんできることが増え、自分の判断でできる範囲も広がっていきました。

カナダに置いてきた心が、徐々に岐阜に帰ってきたような感じでした。カナダに行きたいのは変わらないけれど、今いるのはここで、ここで爪跡を残さないとカナダには行けない。岐阜で何もできていない人が、ORGANに何も残していない人が、カナダに行って前回以上の成果をあげるのは無理だ。今ここで、何か勝利しないと次はない、と思えるようになりました。

そうした中で、手応えを感じることも出てきた。地域の中高年の事業者をサポートしてプログラムを実施してもらうと、今までと違う若い客がついたり、新しい仕事が増えたり、取材を受けたりすることがある。

寺町:
最初は「いやーわしはそんなわけわからんやつはもういい」と言われるのですが、やってみると「こんなPRの方法があるんだ」「面白がってくれる若い女子や東京の人もいるんだ」と再発見をされていて、とてもうれしいです、自己肯定感が上がっている感じがします。まちにいる人が自分の自己肯定感を上げないと、まちとしての自己肯定感は上がらないと思います。

やっぱり私は、地域の人には地域のことを自慢してほしい。岐阜の若い人が岐阜を誇らしく語れるようにしたい。そのためにどうしたらいいか、卒論も就活もワーホリも今もずっと考えています。観光客を呼ぶことよりも、地元の人が地元を語れるようになることに、モチベーションがなぜかあるのです。
インバウンド事業も、私にとってはそういうことです。

寺町さんはORGANのインバウンド担当として、ツアーの造成やガイド、パンフレットの翻訳、海外の旅行会社との商談会などの仕事をしてきた。

寺町:
カナダで、英語をある程度自分のものとして使えるようになったので、ただ英語が話せるというのとは違う要素を見せられるように気を付けています。ツアーや長良川デパートのお客さんには、長良川の水運でものを運んできた話や、和傘がどれほど貴重で職人さんがどれだけすごい仕事をしているのかということを伝えたくて、一生懸命しゃべっています。

今岐阜に来る外国人観光客は、ルートの途中で寄った人や、日本に何回も来てマニアックな段階に入った人がほとんどです。外国人にも、知らないだけで本当は都市以外にこそおもしろさがあることを伝えたいです。

外国人ってよそものの「極地」。その人たちが新しい視点でこのまちを見て「おもしろい」と言ったら、地元の人ははっとするしうれしいと思います。岐阜を語れる外国人を生むことは、地元の人の自己肯定感を上げることにつながるのでは、と今は思っています。

寺町さんの中で「外国人に地方の魅力を伝えたい」という思いが大きくなっていった。

5年後の自分への期待しかない

そして、寺町さんは再びカナダに渡ることを決めた。

寺町:
3年間ORGANで働いて、もっと勉強したいと思ったのが広報やPR、経営、ディレクションなどです。特に、外国の人に英語で発信する効果的なノウハウを学びたい。やはりその国のスタンダードがあるし、それを学ぶにはそこに行って学びたいと思いました。

こんなにも岐阜が大好きで、岐阜に関わる仕事をしてきたにもかかわらず、海外志向が強いという二重構造ではありますが、私の中では全部が一本の線でつながっているんです。

学生のころからこれまで、岐阜のことを思いながらさまざまな活動をしてきた寺町さん。以前に比べて、岐阜の若者は岐阜を誇らしく語れるようになっているのだろうか。

寺町:
「誇らしく」というとわからないけれど、楽しみ方に気付いた人はちょっとだけ増えていると思います。

自分らしく生きること、精神的に豊かであることを大事にしている人が増えているのではと思います。私自身も、一見華やかそうなことだけでなく、陰のあるものとか、変なものほどかっこいいかもと感じるようになりました。

「長良川みちくさゼミ」などで大学生と接する機会も多いのですが、私より若い人はもっとその傾向が強くて、多様性を大切にしていると思います。SNSで人と簡単につながれるから、社会に迎合する必要がない。そういう中で、東京が絶対という思想はもう崩壊してきている。岐阜なんて何もない、田舎は恥ずかしいというこれまでのステレオタイプがを持たない人が少しずつ増えてきている。先入観なく、「結構、岐阜っておもしろいですよね」と素直に言える人が増えているように思います。

今から5年後のことはどう考えているのだろうか。

寺町:
まだ全然わからないですけど、5年経ってからが楽しみだなという自分への期待しかないです。5年前はちょうど就職活動を辞めたころで、自分の5年後が見えなさすぎて悩んだけれど、5年後の今はこんなに楽しいし、輝いていて、だから今も5年後は心配ですけど、「心配しなくていいよ、5年後素敵だから」と思っています。

 一方で、長期間カナダにいたら、今岐阜でやっていることや今の気持ち、岐阜の好きな人たちとの間に流れる空気は、どこに行っちゃうんだろうと淋しくなるときもあります。
ワーホリのときは、脳内で日本の時間を完全に閉店して過ごしたんですけど、今回は同時並行でいけばいいのかなと思っています。

少し前までは永住したいと思っていましたが、今は戻ってきて何をしたいかということが頭を占めています。
これから何があるかわからない。でも、岐阜で過ごした時間と、カナダで過ごす時間を合わせたら、きっと新しいことができるに違いないと確信しています。何かをするのが楽しみで仕方ないです。

岐阜のために働きたい。その拠点がどこかはわからないけれど。岐阜の人が岐阜を語れるようにする、面白い何かをディレクションする立場になりたいです。

その地域を離れても、地域に貢献する道はきっとある。寺町さんの、「岐阜の人が岐阜を誇らしく語れるようにしたい」という一貫した思いによる行動を聞いていると、そう思えてくる。
離れている間に岐阜の人との間に流れる空気はどうなるのか。私自身はどうしても、岐阜で出会った人たちと、岐阜にいるときのような距離感を持ち続けることに難しさを感じてしまう。しかし寺町さんならその距離を乗り越える術を見つけられそうな気がする。カナダに渡った寺町さんの活動に、多くの人がさまざまなことを学ぶことができそうだ。

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