仕事をしながら音楽も、既成概念の打破がモチベーションに。2児の父J.Y.さんが音楽を続ける理由。

学生時代にバンドなどで楽器を演奏していても、社会人になって続けている人ばかりではない。平日の夜は「仕事が終わらない」、週末は「子どもの世話、家族サービスがある」と、バンドに参加することを諦めたり、一度参加しても途中で断念したりする人も多い。

J.Y.さんは、東京のある社会人ビッグバンドで筆者と一緒にアルトサックスを吹いていた人だ。華やかな音でリードアルトサックスとしてバンドサウンドを引っ張り、アドリブも軽々と吹く。一方で練習後の飲み会では、仕事やお子さんの世話などで忙しそうな様子をのぞかせていた。仕事について詳しく語ることはなかったけれど、大手の会社から転職して、そこで偉い立場にあるらしかった。社会人ビッグバンドでは安定した仕事を長く続けている人に出会うことも多い中で、Yさんは異色だった。

仕事でも転機を迎えながら、子育てもしながら、忙しい中でなぜ音楽を続けているのだろうか。音楽の楽しみだけに溺れず、仕事でも新しいチャレンジができるのは、どういう思いがあるからなのだろうか。ずっと気になっていたことを聞く機会を得た。

あこがれのサックス奏者みたいになりたい、でも根っこは「どこにでもいるサラリーマンの息子」

子どものころからバイオリンを習っていて、中学受験の準備が始まる前まで続けていたというYさん。サックスを始めたのは中学一年生、学校の吹奏楽部に入ったときだ。

小学校のときに友達がやっているのを見て、見た目からかっこいいな、やりたいなと思ったのがきっかけです。バイオリンも楽しかったけれど、やはり親から「やりなさい」と言われてやったもので、本当に好きだったら続けていたと思います。対象がサックスに置き換わって、中学に入ったら絶対やりたいと。
中学になってその友達に「サックス始めたんだ」と言ったら、MALTAさんのライブに連れて行ってくれました。それでフュージョンを知って、吹奏楽じゃなくてやりたい方向はこっちだなと。

MALTAは日本のジャズ・フュージョンサックスの第一人者。とはいえまだ中学1年生、しばらくは吹奏楽の曲を吹いていた。自分でもフュージョンを演奏するようになったのは、高校1年生のとき、ジャズ・フュージョンサックス奏者で現在までにグラミー賞を6度受賞する、デヴィッド・サンボーンに出会ってからだ。

学祭に遊びに来たOBの家に連れて行ってもらった時に、サンボーンのCDをかけてくれたんです。この人みたいになりたい、すげーなって思って。
それから譜面を買ったり、小遣いをためてマウスピースを買いに行ったり、雑誌を読み漁ったり。ジャンルや楽器そのものにも興味を持つようになったのです。まわりとはあまり話が合わなくて。
ただ高校では代々、吹奏楽部の有志がビッグバンド形式でジャズっぽいことをやっていたので、そこには参加しました。

進学校だったが、Yさんの在籍時には吹奏楽コンクールの都大会小編成の部で初めて金賞を取るなど躍進した。Yさん自身も「そこそこ上手かった」という。

コンクールのときは「美味しいところ来い」と思っていたし、結構上手いと思っていたけれど、実際には井の中の蛙でしたね。

受験のため高校2年生で部活を引退。その後一浪したため、大学に合格するまでの2年近くは楽器を触らなかった。

大学にはジャズ研があると聞いていたので、入ったらそれをやろうと決めて。大学に行ったら好きなことができるだろうし、まずは大学に入って、好きなことをやろうと思っていました。

「なんとか」W大学に合格。入学して、ジャズ研究会だけでなくフュージョンサークルがある、しかも演奏レベルが高いと知ったYさんは「ここでやるしかない」と入部。そこで衝撃を受けた。

同期のサックスにAくんという、高校時代からフュージョンバンドを組んでいた子がいました。サークルに入ったときにいきなりアドリブがばりばり吹けて、しかも超かっこいい。新入生でサックスをやりたい人が5、6人入ってきたけれど、みんなAくんを見て辞めましたね。

ただ、Yさんがサークルを辞めることはなかった。ちなみにAさんはその後、ヤマノビッグバンドジャズコンテストで優秀ソリスト賞を取り、プロ活動もしている。

サンボーンが大好きで、サンボーンみたいになりたい。それができるのはこのサークルしかない。ベースやドラムの仲間がいて、バンドを楽しくできるんじゃないかと思っていました。
Aくんを見て衝撃的で、コンプレックスもあったしいろいろ辛酸をなめた気もするけれど、彼のおかげで広い世界を知れて、そこそこ上手くなれた気もします。自分にとっては大きな影響を受けた1人ですね。

実力がついてきた3、4年生のときには念願のサンボーンのバンドを組み、ライブに出演した。そのころ、プロになりたいという気持ちはなかったのだろうか。

それが0%かと言われると嘘で、そんなことができたら楽しいだろうなと思ったこともあります。でも大学に入っていろいろなライブを見に行くようになって、日本ではミュージシャンは相当な覚悟がないと無理だし。それに上手い奴が身近にごろごろいて、これは生半可では無理だろうと。
真面目で真っ当なサラリーマンの息子なので、親もそうだし、せっかく親がお金をかけていい大学に入れたし、普通に働くんだろうなという先入観がありました。

就職活動を始め、早々に外資系のコンサルティングの会社から内定を得た。

経済学部だったので、選択肢としてメーカー、銀行、商社などもありましたが、当時存在感が大きくなっていたのがコンサル業界でした。
ミーハーだった部分もありました。世の中の仕組みとか、会社の仕組みがどうなっているかというのに興味があって、コンサルに行けばいろいろな会社が見られるというのもあったのですが、正直、
かっこよさそうだというのもありました。

サラリーマンが、フジロックのステージに

大学卒業前には、社会人になってからの具体的な音楽活動のイメージはついていなかったという。

音楽活動をやめることはないけれど、忙しいだろうから、ばりばり続けるというよりは、そんなことより一生懸命仕事をしないとついていけないだろうと。

ところが入社後、半年ほどの研修を経て配属されたのは、コンサルティングの現場ではなく社内ITヘルプデスクの担当だった。「はずれくじ」とは思ったが、入社前の予想よりも自分の自由になる時間があった。

仕事のための勉強をしなければと思いつつも、こういう閑散とした部署に飛ばされたのも、何かの縁と思いました。たまに良くも悪くも、いい方に勘違いをすることがあって。音楽活動をしてみようと思いました。

バンドメンバー募集サイトを見て、フュージョンバンドに加入。また、友人が立ち上げたバンドを手伝ったりもした。

社会人ってこんな感じでバンドやるんだ、と知りました。フュージョンバンドは40歳くらいの人たちとやっていて、面白かったけれど、自分を含め割ける時間が限られていて、学生時代よりは物足りなさを感じたりもして、他にもバンドを探して。

二つ目に加入したジャムバンドでは、定期的に都内のライブハウスに出演していました。あるとき、対バンしたファンクバンドが「すげーかっこいい」と思って見ていたら、楽屋で「うちで吹いてみない」ってホーン隊にいた綺麗なお姉さんにナンパされて(笑)。そんな風にたまたま縁があって「いいんですか僕みたいなので」って入れてもらいました。

そうして加入したバンド「GM」にはプロを目指すメンバーが揃い、活発に活動していた。練習は平日の夜で、Yさんは仕事の後で向かっていた。

仕事も3、4年目で、時間の裁量にちょっとだけわがままを言える時期と、そのバンドに入った時期が重なったのはタイミングがよかったです。
仕事が終わらなくて「ごめんなさい、今日どうしても行けません」ということもたまにありました。ただサックスは、最悪自分が休んでもリハーサルができなくなるわけじゃない。もし自分がドラムやベースだったら、こういう活動は無理だった、自分から辞めると言っていたと思います。

大変だったけど、今考えれば週末は全然、フリーな時間があったし、ぶっちゃけると「仕事も超頑張っててバンドもやってる俺かっこいい」みたいなモチベーションがありました。

加入翌年、バンドはフジロックフェスティバルの一般公募ステージ「ROOKIE A GO-GO」のオーディションを受け、見事合格。フジロックのステージに立った。ちなみにこの年は同じステージにASIAN KUNG-FU GENERATIONサンボマスターなども立っており、レベルの高さがわかる。

めっちゃ楽しかった。今のところ人生で一番気持ちよかったライブ。普通のサラリーマンがでかいステージに立っているというギャップも楽しくて、ああこういう人生もあるんだと思いました。友達の見る目も変わった気がします。人生でもでかい経験ですね。その後の30代の音楽活動では、あれをもう一度体験したいと思っていた時期もあります。

バンドも仕事もうまくいかない時期の出会い

フジロックで 「第一の絶頂」を味わったYさん。しかしその後、だんだん状況が変わっていく。バンドは方向性の違いなどから、フジロックの約1年後に解散。仕事でも異動で炎上プロジェクトに加わることになり、それが想像以上の辛さだった。さらに、当時付き合っていた彼女との別れも重なった。

精神的に病みそうになって、もうやばい、仕事も辞めようかなと思いながら実家に帰っていた時期もありました。
とはいえ、会社もいつまでも働かせないわけにもいかないので、「こんな仕事があるんだけど」と連絡がきたのです。

その仕事を仕切っていた女性の上司Bさんを、Yさんは「師匠みたいな上司」だと話す。

仕事のさばき方が的確かつ早いし、意思決定が早い。悩んでいるものを持っていくと、ばさっと切ってくれる。無駄なことはさせない。優秀な人でも無駄なことをやらせることも多いんです。

「仕事は納期とスピード感が重要だから、納期に遅れて100%のものを持っていくくらいなら、納期前に70%のできでいいからアウトプットを持ってこい。ごちゃごちゃ悩んでいてもしょうがない」と言われたことは、今も自分の仕事をする上でのモットーになっています。今でも性格的に悩みがちなところはあるし、まだまだな部分も多いですが、それ以前よりはだいぶ成長した気がしています。

Bさんとの相性もよかったんでしょうね。僕のことをすごく買ってくれていました。それでちょっとずつ仕事も持ち直して、自信を持てたんです。

そのころ、解散したファンクバンドは二つに分裂してそれぞれ活動を始め、Yさんは両方に呼ばれて参加するようになった。そこで毎週のようにライブに出演する一方、別のジャズビッグバンドにも参加しはじめた。

ビッグバンドは昔からやってみたかったし、長く続けるにはいいなと思っていました。ビッグバンドは年を取っても続けている人がたくさんいるし、バンドの数が多いから、年2回のライブとか無理のないペースでできるところもある。趣味として続けるイメージがつきやすかったのです。

再び活発に音楽活動をする一方、2009年に仕事で大きな転機を迎えた。人材派遣や業務用システム開発などを行う、立ち上げられたばかりの会社に転職したのだ。

コンサル会社で約10年やってきたけれど、この会社で上を目指すのに、僕はビジネスを知らないと思いました。コンサル会社に来る人は起業家の息子や、学生時代に起業しようとしていた人など、野心がある人が多いのですが、僕はサラリーマンの息子で、すごく普通の人。最初は現場でプロジェクトを回すことが評価されるのですが、あるときから仕事を取ってくることでしか評価されなくなる。このままだとこの先行き詰まるという感覚がありました。後は、10年やると飽きてくるというのもありましたけど。

たまたま今の社長がフジロックのころに一緒に仕事をしていた人で、誘ってくれました。そういう人生の大事な判断を右脳に委ねるというか、深く考えないで判断するところがあるんです。それがいまのところなんだかんだうまくいっている秘訣のような気もするのですが。いろいろなことが重なり、辞めてチャレンジしてみようかなと思いました。

それまでは大企業にいたから、役割が分かれていてそれぞれが得意分野をやっていたけれど、今度は仕事をとってくるところから、契約の事務作業まで自分でやらないといけないし、何よりそのための資金を調達しないといけない。わかっていたことではあるのですが、ネームバリューがなくなって、やはり会社の看板はこんなにも大きいんだと思いました。

こんなに自分にできないことがいっぱいあるんだなとも思ったけれど、会社ってこうやって大きくなっていくんだ、こうやって回っているんだというのが体験できて、面白かったし楽しかったです。

入社時に4人だった社員は、現在までの10年で約80人に増えている。会社が急成長する中、入社3年目には副社長に就任したが、Yさんは「たまたま長くいて頑張っていたからというのが大きい気がする」と謙虚に話す。音楽活動も続けていた。

バンド活動が停滞したのは子どもができたときからですね。

仕事、子育て、音楽

2013年に第一子が誕生。奥さんだけに子育てをさせるわけにいかず、主に週末に活動していたビッグバンドは、その半年ほどのちに退団せざるをえなくなった。

すごく寂しかった。でも、今まで「結婚するから辞めます」「子どもができたから辞めます」と言う人が結構いた理由がやっとわかりました。そのときは「なんで」とかきついことを言ってしまっていたけれど、なるほど、ほんとごめんなさいって。

その後、2016年には第二子が誕生。奥さんも仕事をしているため、週末は奥さんが仕事に出かけ、Yさんが子どもたちの世話をしている時間が長い。

そのころファンクバンドは二つとも活動を縮小していた。そんな中、2014年にYさんは平日の夜に活動するビッグバンドに参加しはじめた。

楽器を吹く場所がほしかったんです。家から近くて、平日動ける場所だったし、募集記事に「ライブはやらない練習バンド」と書かれていたのも気楽で、なんて僕にぴったりのバンドなんだ、と思いました。

すぐにリードアルトサックスとして、バンドサウンドを引っ張る存在となった。その後も平日に練習するビッグバンド「O’s Jazz Orchestra」での活動を続けている。

昔よりは、責任も増しましたが自分で自分の時間をコントロールしやすい時期も多くなりました。
仕事のできる人って時間の作り方も上手いんですよね。僕の場合はそこまででないから、ちょっとだけ無理をするというか、無理やり捻出するというか。やっぱり音楽は好きだから時間が作れるんだと思います。今までの成功体験や楽しかった思い出があるし、好きだから、そこに対して捻出しようと思えるんだと思います。

平日は、仕事の都合で休むこともありながら時間を捻出している一方、週末は主に子どもたちと過ごす。バンドのライブが週末に組まれると、家庭の都合、また仕事の都合でどうしても出演できないこともあった。

ライブは本当はたくさん出たいです。ただ、どっちかというと他のメンバーに申し訳ないと思っています。今のバンドでも、よく囲っておいてくれるなと思うんです。

仕事も、バンドも、大事なことは共通している

なぜ他のバンドメンバーは、たとえ欠席することがあってもYさんを離さないのか。もちろん、リードアルトサックスとしての演奏が群を抜いて魅力的だからというのが理由の一つだろう。華やかな音と変幻自在なアドリブは、少年のころからサンボーンに憧れ、練習を重ねて身につけた確かな技術に支えられたものだ。
しかしそれだけではないのではないかと、同じバンドで活動していた筆者は思った。仕事、そして家庭でさまざまな状況に出会いながら培ってきた人間性が、バンドに貢献しているからでもあるのではないだろうか。
そう質問すると、Yさんはしばらく「うーん」と考え込んでから話し始めた。

おこがましいけれど、みんなに感謝の気持ちはあって、それをちょくちょく伝えていると思います。月並みだけど「ありがとう」はなるべく言うとか。

仕事でも基本はそうです。会社では一応偉い立場ですが、メンバーがいないと成り立たない。苦手な人もいるんだけど、ふと立ち返った時に、関わっている人みんなに感謝しかなくて。
質問に対して、なぜだろうと考えたら、そういうのがちゃんと伝わっているのかもしれないというのがあると思います。

あと、会社で部下を持つ立場として一つ大切にしているのは、新卒のころに上司に言われたことで、「リーダーがやるのは最後は一個だけ、メンバーのケツを拭くことだ」と。言葉は汚いけど、責任を持つことだと。何かあったら僕が責任を持とうという覚悟があると思います。
仕事の部下でも、その信頼があるからやってくれているのかなと思うし、バンドでもそれを何かの形で汲み取ってもらえているのかなと思います。バンドで大事な意思決定をしないといけないとき、決断しなきゃいけないとき、困ったときや問題が起こったときに、僕の責任でもってさばく覚悟はあるのかもしれないですね。

確かに、同じバンドにいた当時、問題が起こったときに、リーダーを助けながらYさんが決めてくれたおかげで、他のメンバーも細かい動きをしやすかったことがあった気がする。あのとき頼れる存在に感じたのは、きっとそういうことだったのだろう。今のバンドメンバーも、似たことを感じているに違いない。

こういう生き方もあっていい

これまで形を変えながらも、仕事をしながら音楽活動を続けてきたYさん。Yさんにとって音楽活動とはどういう存在なのだろうか。

知らない世界や人と出会える。そして、いろんなチームでいろんなことができる。音楽だけでなく趣味を持っている人なら、誰でも同じような状況が生まれると思いますが。
普通に暮らしていたら出会わない人と出会えました。それこそ、全身に刺青が入っている人もいたし、プロ活動をしている人も。音楽活動を通してでないとできなかった縁で、すごく深い縁になっている友達も何人もいるんです。

それに、楽器を通して自己表現するというのが僕にはものすごく楽しいことです。サックスはそこそこ上手になれたから運がよかったんだと思います。やはり上手くできるものって楽しいですよね。ここまで練習してこうやったらここまで行けるというのが見えているのも楽しい。
僕はもともと運動神経がよくなくて、なんでもできる人に対してコンプレックスを持っていたところもあったけれど、音楽で救われたところもあります。

この先も子どもを育てながら、仕事と音楽、両方を続けていくのだろうか。

年を取ると先が見えてくる部分もあるけれど、それに抗うことはしたいんです。
会社で今の立場に就いたのには、若干の反骨心もあって。僕はサラリーマンの息子だけど、起業家の人は親も起業家という人が多い。意外とヒエラルキーみたいなものって存在していて、それに風穴を開けてみたいというのが、仕事をしている一つのモチベーションになっています。

仕事をしながら音楽をやるというのも、ある意味ずるいところがあると思うし、仕事自体に楽しみを見出している人はやっぱり上に行っていて、稼いでいる。音楽がない方が集中できるのかなと思うこともあります。だけどそれをそんなに考えても仕方がないかなと。

原田泳幸さん(アップルコンピュータ日本法人社長、日本マクドナルドホールディングスCEOなど)はドラムもプロ級の腕前だし、前澤友作さん(ZOZOTOWN創業者)も元プロのドラマーだったりする。何が正解かなんて、その人次第だからわからないんです。
こういう生き方もあっていいんじゃないかというのが、一つのモチベーションになっています。

2020年は、フジロック後に分裂した二つのファンクバンドバンドのうち一つ「DCK」が復活し、5月の池袋ジャズフェスティバルに出演する予定もある。音楽活動もますます充実させているYさん。最後に、これからやりたいことを伺ってみた。

音楽は今のところ、年を取ってからも続けたいと思っています。仕事はもう年も年だから、死なない程度にいろいろなチャレンジをしていきたいです。会社を大きくすることとか、自分が誰かに貢献できることをするとか。今できていないことがたくさんあるんです。全世界を平和にしようとか幸せにしたいとまでは思えないけれど、関わっている人たちが幸せになってくれるようなチームがつくりたい。それはバンドでもそうで、バンド仲間が楽しいようにしたいと思っています。それと、子どもが幸せになってほしいな。

自分のことじゃなくて周りのことばかりですね、と尊敬を込めていうと、Yさんは笑って付け足した。

でも楽したいっす。楽して楽しいことがしたいし、本当はものすごく自分勝手なので一生懸命こういうこと言って頑張ろうとはしています。

 

終始、謙虚に話すYさん。仕事と音楽を無理に結びつけようとせず、かと言ってそれぞれで別人格になるわけでもなく、どちらも同じことを大事にしてベストを尽くしているところに、周りから慕われる理由があるのかもしれない。人間力を磨くことは仕事でもバンドでも大切なのだ。そんなYさんの、バンドがうまくいかなくなった時期と、仕事やプライベートがうまくいかなくなった時期が重なっているのは興味深い。

なぜ、どんなに忙しくても音楽を続けているのか。「趣味」という言葉だけでは説明できない。楽しみを知ってしまったというだけではない。音楽が「生き方」のレベルにあるものだからだ。仕事もそうで、それもただやるのではなく、ヒエラルキーに風穴を開けるレベルのことをしたいと考えているから、チャレンジもする。そのどちらもやることをモチベーションにして生きているから、音楽なしの人生は考えられなくて、少々無理やりにでも時間を捻出しようという気持ちが起こるのだ。もちろん、子どもは「やっぱりかわいい」と話すYさんにとって、子育ても抜きにはできないことだ。

そういう生き方にはもちろん大変なこともあるだろう。しかし「快感」とか「そういう俺かっこいい」とか思うことで続けることができ、より大きい楽しさを得られるのなら、それも全然ありなんだな、と思う。

筆者にとって音楽は生き方のレベルにあるものなのだろうか。正直なところ、まだわからない。Yさんと違って、楽器において自分が人より優れていると思ったことは一度もなく、むしろ人より上達が遅い。いつ辞める時が来るかわからないと思っていたから、これまで一年一年必死だったところもある気がする。だけどその状態のままある程度の時間が経った。筆者にとって音楽は、これからもそれなしで生きられないようなものなのだろうか。それがわかるには、もう少し時間が必要なのかもしれない。

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