7月14日、あの日から一週間。

一週間前、長良川は大雨でとても増水していた。
何もできなくて、家族とLINEをした後は、twitterで「岐阜市」を検索し、10分ごとに更新される長良川の水位のページを見続けるしかなかった。長良橋あたりから撮った定点カメラやテレビ映像が何度もtwitterに現れた。見た目は早くからひどい状態が続いていた。

長良川頑張って。そう祈った人は私だけではないと思う。
昭和51年に「9.12水害」というものがあり、小学校の校庭の片隅には、その時に浸水した高さを示す看板があった。とはいえそのときも、長良川の堤防は岐阜市の中心部では決壊していない。私が市役所に入ったときの課長さんが、自分の新人時代にこの水害に対応したと話してくれたのを思い出した。もし長良橋あたりで切れてしまったら、本当に未曽有の災害になるだろう。最前線で支えてくれている皆様ありがとう、住んでいる皆様も無事でいて。できることは祈ることしかないけれど眠れなかった。3時30分を過ぎたころ、やっと水位が下がり始めた。

今日見たら、水量はまだ多いけれど大分普段に近づいていた。


泳いでいる人がいっぱい。


SUPもできるくらいになった。SUP、ここでやっているのを初めて見た。この景色の中、気持ちよさそう。
鵜飼はまだ観覧船を出せない。でも今日から鵜舟は漁を始めることになった。長良川プロムナードから無料で見られる。


午後3時半過ぎ、杉山秀二鵜匠のお宅では、もう今日連れていく鵜が選ばれて鵜籠に納まっていた。
川原でも杉山雅彦鵜匠や船頭さんたちが準備中。
篝火をつるす篝棒にムクゲの木を巻いて、棒を滑りやすくする。


近くを通ったとき、雅彦さんが船頭さんに何か指示を出していた。その声からは、久しぶりの漁で楽しそうなのがだだ洩れ。


テレビでレポーターの方が駐車場にいた旅館。床は2階以上で、川からはかなり高い。


あの日閉まった陸閘。長良橋のものが大きいが、それ以外にもこういう小さいものが近くにたくさんある。


神社の鳥居と境内の間にも。暮らしの中に当たり前のようにある景色になっている。

岐阜県の使う「清流の国ぎふ」というフレーズ。それは水害と切っても切れない県ということでもある。昔からずっと、水害に直面し続けてきた。そんな中で得た知恵を学校で教え、職場で話し、伝えながらアップデートしてきた。先人の歩みは、岐阜の誇りと言ってもいいのかもしれない。
とはいえ、幸いにして岐阜市のこの辺りはいつもの姿を取り戻しつつあったものの、県内では大きな被害を受けた地域があり、亡くなった方もいる。
そして西を見れば甚大な被害が。

被害にあわれた皆様に心よりお見舞い申し上げます。
自分にできること、終わったわけじゃない。

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です