今、僕は本当に楽しい。2人の息子の父である漫画家・石田意志雄先生が会社を辞め、出会った「自分の人生」(前編)

ある日、ツイッターのタイムラインで4コマ漫画が流れてきた。私がフォローしていた人の誰かがリツイートしていたのだと思う。岐阜の人が描いているらしいと知り、なんとなくそのアカウントをフォローした。2013年ごろのことだ。

 

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第2361話 『表現者2』 #石田意志雄 #偉大なるいしお先生 #4コマ漫画 #漫画 #マンガ #エビフライ #🍤

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その4コマ漫画「偉大なるいしお先生」には、「いしお」の日常や家族とのできごと、ふとひらめいたギャグなどが描かれている。サラリーマンの方が毎日書いているらしく、新聞にも取り上げられていた。毎日爆笑、という感じの漫画ではなかったけれど、いつもなんだか面白かった。よくわからないときも、よくわからないことがこんな風にたくさんの人に発信されていることが面白かった。そして、会社が忙しくても毎日漫画を描き続ける、よくわからない日も漫画を出し続ける、意志雄先生の存在に励まされていた。

しかししばらくして、漫画を読んでいて「あれ?」と思った。ツイッターやフェイスブックを遡り、意志雄先生が会社を辞めたことを知る。

サラリーマンが毎日描いている、ということで興味を持った人も多いはずなのに、専業になったら面白さが半減してしまうのではないか。勝手に心配になった。しかし漫画は変わらない雰囲気で毎日流れてきた。それまで以上に、意志雄先生のことが気になるようになった。

あるときには新作漫画が。そしてあるときにはエッセイが、ある時は石にペイントした「石形」が流れてきて、好意的なコメントがついている。毎年11月14日に行っている「ISHIFES」には、平日でも多くの熱狂的なファンが多く訪れているようだ。ホームページを覗いてみると、デザインのお仕事もされているという。そしてあるお店のインスタグラムには、意志雄先生が多忙のため駐車場整理のお手伝いを卒業したとある。

どうしても意志雄先生が気になった。どんな方なんだろう。どんなことを考えて独立し、フリーランスとしてお仕事をされているのだろう。お話を伺いたくなった。
実はそれまでにも柳ケ瀬商店街の「サンデービルヂングマーケット」などで、意志雄先生をお見かけしたことがあった。でも緊張しすぎて話しかけられなかった。それでもあまりに思いが募って、取材をお願いしたいとメールを送ると、すぐにメールが返ってきた。ご快諾のお返事だった。

取材場所は先生の奥さん、理江さんが営む岐阜市長良の「gift & wear tRonchi(トロンチ)」。当日、どきどきしながら戸を引くと、意志雄先生がにこにこと迎えてくださった。なんてことのない手土産も喜んで受け取ってくださって、ああやっぱりいい人だ、と思った。


石田意志雄先生

――もともと、絵を描くことがご専門だったのですか。

いえ、大学は外国語学部でした。でも元をたどると、小学生のころは休み時間のたびに自由帳に落書きをしていました。遊ぶのもスポーツも好きで、根暗ではなかったのですが。二つ上の兄もよく絵を描いていてうまかったので、真似をしていました。『ドラゴンボール』が流行っていて、そのキャラクターを描いたり、オリジナルのキャラクターを考えたり。とにかく無心で描くのが好きでした。それが今につながっていると強く感じます。

中学に入っても美術の時間は好きでした。自分で言うのもなんですが、普通よりちょっとは上手なレベルだったと思います。でも、自分より上手い人はたくさんいました。

もし自分にプライドがあったら、そこで挫折していたかもしれません。でも、いい意味で自分の絵にプライドがなくて、自分より遥かに上手い絵を見たときに「わーすごい、上手いな」と感動できた。いま思えばそれがよかったのです。 自分が楽しければ、他人の評価なんてどうでもいいという、描くことを純粋に楽しめるタイプでした。悔しさしか感じていなかったら、今漫画家をやっていないと思います。

――なぜ「いしお先生」の漫画を描き始めたのでしょうか。

ツイッターでつながっていた知り合いの建築家の門脇和正さんが、ときどき「これいりませんか」というツイートをしていて、「ほしい」という返事がついていました。古くてかっこいい建物に住んでいて、家の中にお宝がたくさん眠っているんです。

これに乗っかって面白いことをやろうと思って、自分の家の庭に石があったので「これいりませんか」とツイートしました。ツッコミ待ちです。やはり「いらねーよ、あはは」で終わっていった。でもその時、何かしたら、よくわからない庭石を誰かがもらうかもしれないと思ったのです。

いしおというキャラクターが生まれなければ漫画も生まれなかった。自分の思いついたことを面白く表現したいという気持ちがあり、落書きが好きだったので自然と漫画になったのでしょうね。

愛知県美浜町出身で、勤めていたのは名古屋市内の会社。妻の実家の近くにと、岐阜市に家を買った。「トロンチ」はもともと岐阜市の八幡神社で行われている「小さなクラフト展」で始め、最初の店舗は「やながせ倉庫」で開いた。そのころにクラフト展主宰、やながせ倉庫管理人の上田哲司さんや「やながせ倉庫」の他の入居者など、さまざまな人に出会う。さらに柳ケ瀬商店街、門脇さんを始め岐阜市でまちづくり活動をする人など、つながりの輪は広がっている。彼らがツイッターで「いいね」やリツイートをすることで、「いしお」の輪はさらに広がっていった。

――アップした時の反応は気になりますか。

全く気になりません。もちろん、反応があって面白いと言ってもらえるとうれしいけれど、僕の場合大抵「つまらない」と言われます。それでもいいんです、見てくれているということなので。未だに「なんだこの下手くそ」と言われることもありますが、何も思いません。自分が楽しいがためにやっているので。

――もう6年以上続いていますね。

よく続いたと思います。最初はどこまで続くかなと思っていましたが、やはり楽しいから続くんだと思います。みんな毎日ご飯を食べますよね。そんな感覚で、苦じゃないんです。
ネタは事前に思いつくときもありますが、最近はそういうことは少ない。ソフトを立ち上げて、さあどうしようかと、しばらくぼーっとしています。

正直なところ、漫画家と名乗っているだけで、他の人から見たら下手くそな絵だと思います。でも、続けているとみんな「すごいね」と思ってくれます。つまらないけれど、絵は下手だけど、続いているのはすごいねと。だから続けようと思っています。

 

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第2352話 #石田意志雄 #今日のSAM #1コマ漫画 #マンガ #漫画

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こちらは好きなことだから自然に続けていて、すごいことをやっている気はありません。それで褒めてもらえるのだからラッキー。やっぱり褒めてもらえるのは嬉しいですから。

続けていれば人は何にでもなれる。漫画を描き始めて6年くらいになります。全国で名を知られているわけではありませんが、岐阜や柳ケ瀬では、名前を聞いたことがあるという人が徐々に増えてきています。これは続けてきた結果。やってよかったと思います。


「やながせ倉庫」にも石形が置かれている

基本的に、すごくまじめな性格なんです。学生のときも先生に「お前だけは頼りにしている」と言われていました。今でもそういう部分はもちろんあるのですが、おもしろいことが好きな部分もある。人には誰しもそういう部分があるのではないかと思うんです。そこに僕はメッセージを送りたい。

みんなだって表現したいことがたくさんあるはずだけど、ばかにされたらいやだから隠してしまう。僕は毎日ふざけた漫画をさらけ出すことで、自分のふざけているところを出している。漫画を面白がってくれる人は、その感じをわかってくださっていると思います。「すごいね」と言ってくださる人に対して「そんなそんな」と言いながらも「この人わかってるな」と思います(笑)。自分がすごいと思っている人が嬉しい言葉を言ってくださることが多いので、自信になります。

あの漫画を描く人が、会社を辞めて漫画家になろうとする人が、まじめな人だったとは。意外だった。本当なのだろうか。そして、なぜまじめな人が会社を辞めて漫画家になったのだろうか。

――会社を辞めて独立したきっかけを教えてください。

新卒で入った広告制作会社で、16年くらい働きました。基本的に真面目な性格で、自分で決めたことは最後まで成し遂げようと思う人間なんです。嫌なことも、このままでいいのかなと思うこともたくさんありましたが、何とか乗り越えてやろうという気はありました。

きっかけは、子どもが二人いるんです。小学校6年と4年。でも、子育てをする時間がない。平日は朝早いし夜遅くて、帰ってくると夜9時くらいにはなる。土日は休みだったのですが、母親からすれば日々のことを手伝ってほしいはずです。気づいたら子どもはどんどん大きくなっていく。このままだとお父さんと接する時間がないまま育ってしまって、何も伝えられないと思いました。

20人くらいの小さい会社で、昔ながらの年功序列だったので、この先もずっと中間管理職だということが目に見えていました。上司は何もしないし、部下は問題なかったけれど、仕事は全部僕に回ってくる。投げ出せないタイプなので、嫌でも頑張っていました。それがストレスになっていたのでしょうね。35歳で人間ドックを受けたときに、大腸ポリープが見つかりました。

まさか自分がそんな風になるとは思わなかった。良性だったのでよかったのですが、このままではまずいなと思いました。このまま死んだら全然面白くない人生じゃん。子どもと接する時間もないし、会社に潰されてしまう。死ぬ時くらい笑いたい。このまま会社にいたら絶対に後悔する。辞めようかな、と思いました。
子どもが二人いるし、住宅ローンもあるし、普通なら辞められない。でも、転職してサラリーマンをやるという選択肢はありませんでした。どこに行っても絶対に一緒だと思った。やりたいことをやりたい。人生、今まで会社に生かされていた感じがするけれど、それじゃ面白くないし後悔する。人生自分で決めてやろう。子どもがいるけど、家のローンもあるけど、そんなの関係ないや、と。

妻が「トロンチ」をやっています。それを手伝いつつ、石田意志雄として稼げるように頑張りたいと家族に伝えたら、反対はありませんでした。家族の協力がなければ「どこかで働いて」と言われていたと思います。

――独立したとき、稼げる目処は立っていたのですか。

これくらい稼げるというような見通しは一切ありませんでした。もっとやりたいことがあったんじゃないの、このまま死んだら後悔するぞという気持ちしかありませんでした。

「いしお」をやろうと思いました。死ぬときに、ああ面白かったと思いたい。自分が面白いことをやっていないとそう思えない。
東日本大震災の後、「暗い気持ちになったりもするけれど、人間って笑わないとまずいな」と思うようになっていました。自分自身が笑えるためにも、この漫画を描き続けていこうと思いました。

――今デザインなどのお仕事もされているということは、どうしても漫画だけでやっていくという気持ちではなかったということでしょうか。

それまで求人広告の制作をしていたので技術は身についていて、デザイン業でもいけるだろうという思いはありました。でも営業活動はしていなかったので、最初は知り合いに作るしかありませんでした。名刺やショップカードを作らせてもらうと、お店に置いてあるのを見たお客さんが「自分も名刺を作りたい」とお店の方に相談することがあります。その時に「石田意志雄先生、いいですよ」と勧めてもらって、そこからお客さんが来ることが増えました。今では自分が全然知らない人からも依頼があります。

お客さんには、これからフリーランスになるという方が多いです。子育てが終わった方、資格を取った方などで、名刺やロゴを作るぞと意気込んでいるけれど、どこに頼んでいいかわからない。でも石田意志雄ならと、面白がって頼んでくれます。漫画家・石田意志雄のキャラクターから、身近な感じを持ってもらえるので頼みやすいようです。毎日漫画を描くことが、一番の営業になっているかもしれませんね。

デザインは専門の方にはかなわないところもありますが、お客さんもわかっていて、そのクオリティを求めてはいません。ただ、僕はデザインが早いんです。そこを気に入ってもらえて「すごい助かる」と言われます。
会社で求人広告を作っていたときは、毎週締め切りがあるので、写真を入れて、キャッチコピーを考えて、と1週間で何十本も作っていました。それを16年やってきたので、早く作ることは鍛えられているのです。
あとはフットワークも軽くて、呼ばれたらすぐに行く。価格も、企業に頼むよりは安いと思いますし。

デザインが早い、フットワークが軽い、というのは技術だけでできるものではない。仕事を後回しにしないためには、意志の力が必要だ。意志雄先生は確かにまじめなのだ。そのまじめさが仕事を作り出し、仕事の幅を広げている。やることをきちんとやって、筋が通っている。取材のお願いをしたときにメールのお返事がとても早かったのも、先生のまじめさの現れだったのだ。収入の見通しのないまま会社を辞めた意志雄先生の仕事を支えたのは、先生のまじめさだったのだとわかった。
意志雄先生の仕事は柳ケ瀬商店街のマップ、病院のロゴ・診察券・看板などのトータルデザイン、菓子店のパッケージ、幼稚園のオリジナルキャラクター、英語教室の案内漫画などと、幅が広がっている。もちろん、つながりの輪の力だけでは、これほど広がっていかないだろう。

後編では、フリーランスとして生きる意志雄先生に、今思うことを語っていただく。人生に悩む人のヒントになりそうな名言の数々、どうぞお楽しみに。

石田意志雄
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