SNSのタイムラインで「withコロナ」「アフターコロナ」という文字を見かけるようになった。
でも、命あってのアフターコロナだ。
そして、もし自分が感染者や患者だったら、苦しかったりして「withコロナ」なんて言いたくないだろう。感染者や家族の周りの人も。好きになれない言葉だ。
多分、今この状況をどう改善するかが一番大切だ。
でも、誰かが先のことを考えておかないと、この先どうにもならないのかもしれない。仕事がなくなったり延期になったりして、すぐに切実な経済的困窮に直面するわけではなく時間ができた人もいる。自分にできることを実行するということだ。
5年くらい前はよく取り上げられていた、東京オリンピック・パラリンピックの「レガシー」という言葉は、いつのまにか死語化してしまった。みんな目の前のことで精一杯になっていた。放っておけば同じことになる。
ただそれでも、いつ自分が感染者となって苦しい思いをする方の立場になるかわからない、と考えておくべきなのだろう。
亡くなった方、闘病中の方、周りの方、医療従事者の方、その周りの方、などに思いを馳せて、その上で考えてみたい。
不要不急でも必要なもの。
平日、その時間に手が空くとテレビで「ヒルナンデス」をつけておくことが多い。他局が新型コロナに関する話題ばかりの中で、食べ物やファッションの話題で盛り上がっているのを見ると気分が明るくなってくる。過去に撮影されたお出かけの話題のときも、そんな場所もあるのかと見ていて楽しかった。
テレビに、バラエティ番組は必要だと改めて感じる。
不要不急の外出を自粛して、心が閉塞しそうなときに、いかに外出以外の不要不急のことを、生活の中に流れ込ませるか。
本業の会社で、雑誌の次の号の発売日が1か月延期になった。自分も、不要不急のものをつくっている仕事なのだと改めて気付く。それで食べていくというのは大変なことだ。
内容次第で、それが誰かにとって必要なものになることもある。今の私にとってのバラエティ番組のように。
インフラと不要不急の間。
編集部の同僚の皆さんはテレワークになったそうだ。確かに業務はテレワーク可能なものがほとんどだと思う。
しかしそれで入稿したとしても、印刷する工場の方はそういう訳にいかない。請け負ったら、誰かが工場に来て本物を見なくては納期に間に合わない。
本業の雑誌で扱っている住宅というものを考えると、新築計画を決めることは不要不急な場合が多いだろう。
ただ、住宅を建てる工務店では、進行中のお宅の打ち合わせ、工事が変わりなく進んでいるとも聞く。施主の仮住まいの都合などもあるし、簡単に延ばせない。そして工事はもちろんテレワークにできない。
本業が休業状態になっている友人が、ピザ工場で働いていると聞く。
スーパーには変わらず入荷があるから買い占めしないで、などと言えるのも、食べ物や生活必需品をつくってくださる方々がいるからだ。全国で、何らかの工場がクラスターになったという事例は聞いたことがない気がする。きっととても注意してやってくださっているのだろう。
以前働いていた市役所の仕事は大体が急を要するものにつながる。文化財を担当していたころ、過去の遺物より今生きている人の方が大事だよなと、葛藤を覚えることもあった。でも途中で気付いた。ここで保護しなければ、これまで何百年、長ければ千年以上も受け継がれ、この先も受け継がれるはずだったものが、ここで途切れてしまう。
そして、そういういろいろな仕事を担う人を家にいて育てるという、重要な任務にあたっている人もいる。
医療現場の方々、生活に必須のインフラを守る方々と、不要不急の仕事との間に、無数の仕事がある。その一つ一つが、尊い。
政府に協力してテレワークをする人、休業する人だけが偉いんじゃない。よくよく考えながら今日も現場に立つ人は、私には政府に協力しない人ではなく、誇りを持って仕事をする人に見える。
亡くなった方、闘病中の方、周りの方、医療従事者の方、その周りの方、などに思いを馳せて、
その上で、自分に今できること、この先できることは何なのか。
今の私には、子どもを健康に育てることが一番だと思う。
その先を考えると。
状況が変わっても、自分次第。
外出自粛により、オンライン飲み会が流行っていると聞く。
オンライン飲み会なら私も岐阜の人と飲み会ができるはずだ。しかし首都圏の人を含め、誘われたことも誘いを目にしたこともない。飲み会をするような友達がいないということなのだろうと思う。
もちろん、自分の今の状況では時間が読めないから、オンラインでもしっかり参加するのは難しいのだけれど。
それに、普通の飲み会でもうまく喋れることの少ない私が、オンラインという場で楽しく話ができるのか自信がない。最近SNSでよく見かけるオンラインイベントのライブ配信でも、コメントを書き込む勇気がなかなか出ないほどだ。
この状況下で、仕事でもそれ以外でも、オンラインで何かする環境がより普及していくだろう。岐阜のこと、岐阜の人のことも、オンラインでより情報が流れてくるようになるかもしれない。
でも、それを新しい機会として生かせるかどうかというのは、自分次第だ。
私に、このブログでできること。
そんな私がこのブログでこれから何ができるのか。
岐阜のいろいろな人と交流を深めていくようなことができるのか、そしてそれによってよりよいブログにすることができるのか。自分の環境においても、能力を考えても、まだそういう見通しは立たない。
もう少し環境が落ち着いて時間が読めるようになったら、オンラインで何かする練習をしてみたい。どなたかオンライン飲み会の練習につきあっていただけたら幸いです。。。慣れたら見えてくるものもあるかもしれない。
この状況に慣れた人や、若いうちにこの状況にさらされた人は、きっとオンラインで何かやることが当たり前にできるようになる。放っておけば、そういう人と自分との開きがどんどん大きくなってしまうだろう。
このブログではインタビューさせていただける方を募集しているが、その要項において、以前からオンライン取材も可としてきた。
この状況でインタビュイーのオンラインへの抵抗が少なくなれば、そして私がよりオンラインに慣れれば、今後はオンラインでも、もっと取材をさせてもらいやすくなるかもしれない。
要項は今後も基本的に変わらないけれど、もう少ししたらわかりやすく加筆してみたいと思う。オンライン飲み会はやったことがないけれど、オンライン取材は経験がありますので、興味のある方はお気軽にお問い合わせください。岐阜の方でも、それ以外の方でも。
現地に行って直接お会いする取材と、オンライン取材はどこが違うのか。違いはあると思うけれど、はっきりまとめられたものをあまり見たことがない。
取材で集められた材料の中で原稿を書くのだから、これまでの経験では、オンライン取材でも書くときに困るということはあまりなかった。インタビュイーの周りの視覚情報など、どういう材料を集められるかというところに違いが出るのだろうと思う。一つはっきり言えるのは写真が撮れないということだが、顔出しNGの方の場合などは関係しない。
この状況のせいだけじゃなく、なかなか人に会いに行きづらい、特に岐阜の人により会いに行きづらい環境になった私だけれど、オンラインの普及をうまく活用できれば、これからもインタビューができるかもしれない。直接お会いできるのが一番いいのではと、なんとなく思うけれど、それができないから諦めるという状況ではなくなってきた。
出産のための里帰り中に、NHKの番組「街録(ガイロク)」を知る。どんな人にもドラマがある、ということを伝える媒体はこのブログだけではない。そんな中で、私は何を聞いて、どう掘り下げられるのか。
環境的にも、精神的にも、今はまだ人の話をちゃんと受け止める用意ができきっていないけれど、もう少しだけ準備が整ったら。
この状況を仕事を通して社会の人々と共有することは難しいけれど、なかなか家から出られないという点では似た経験ができている。
家の中で子どもとばたばたしている今を、次につなげたい。この日々で経験を積んで、視野を広げて、もっと引き出せる人間になるんだ。そう思えたら、乗り越えられることもあるのかもしれない。